僕はBとのこのやりとりのうちに、二つの間違いを犯した。一つはBと気軽に二度目の集会に行く約束をしたこと。もう一つは何も言わずにBとの繋がりを遮断したこと。 一つ目は回避不可だという結論が自分の中で出た。その要因を箇条書きで記す。
- Bと宗教の集会に行ってから、次の集会の約束をするまでに起きた出来事、すべてが一日の間に起こった出来事だということ。
- 僕が行った集会が宗教のものだと分かったのが、集会所について中に入り、巨大な偶像とそれに祈る人達を見た時だということ。
- その宗教がどういう思想に基づいたものなのかがまったく分かっていなかったこと。
- 宗教とは何かということすら、僕は理解していなかったこと。
1について、これは全てBが計画したことなので、僕はそれに従うだけだった。断る理由も無い。 2について、これは明らかに彼側の落ち度である。彼は僕をこの集会に誘ってから集会が終わり、帰りの車に乗るまで「宗教」という単語を口にしなかった。その時の車の中で僕が口に出して初めて彼はそれを認めた。 3について、これはその宗教の特異性だと僕は考えている。この宗教は創価学会という名前なのだが、僕は名前くらいしか知らなかった。 4について、今の日本において、一般人が宗教について深く考える機会が乏しいことは明白だ。 僕はラジオが好きでよく聴いているのだが、AMラジオのキー局である文化放送、TBSラジオ、ニッポン放送の全てにスポンサーとして創価学会がついており、よく創価学会のCMを聴いていた。内容は、友達は人生の財産、友と共に学び、共に切磋琢磨しようといった内容である。 僕はこのCMを聴いて勉強会のイメージを持った。創価学会という名前からしてそのイメージは肯定される。テレビの深夜番組でも、時々創価学会のCMが流れるが、内容は変わらない。 公共放送で得たイメージということは、一般的にもあまり差異のないものになるだろう。これ以外で創価学会の文字を見たのは2chとはてなくらいだ。そこでもこの意見は大多数だったので、ほぼこの認識で間違いが無い。 それと、宗教についてだが、授業で日本の宗教を知ることはあっても、実際の生活の中で宗教を体現することはまずない。本来、参拝や葬式、墓などは宗教的なものだが、この国ではしきたりとして形骸化されている。なので、個々人が宗教活動と意識的に思わない限り、宗教を体現するとはいえない。 創価学会を知らない人にとって、それは勉強会という辺りのイメージを持つということ。そして、宗教の本質に触れる機会が乏しいこと。この二点により、現実 的なコストを考えると、二十ちょっとの僕があらかじめ宗教や創価学会の知識を獲得するのはほぼ不可能だという結論に至った。 二つ目、これが今回の僕の落ち度である。 彼からしてみれば、昨日まで自分の信念を支持してくれていた友達が、急に音信不通になり、mixiでのつながりも遮断された。おそらくは戸惑っただろう し、落胆しただろう。そして怒りも湧く。が、何故遮断されたのかを判断する材料が無いので、それらの感情が消化されない。僕は普通ならばこの材料を彼に与えなければならなかった。
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