1/13/2008

Do The True Dreams of The Best Friend? #6

ここまで僕がコミュニティから排除された要因と思われる出来事を書いた。その中での最後の決断が正しかったかどうかはまだ分からないが、僕が何も語らなかったことで、Bの中に自分で記憶の中から答えを探さないと解決しない、決して今回の件の当事者でなければ見つけることの出来ない答えを植えつけることが出来たのは良いことだったと確信している。

今回、こうやって一つの繋がった文章として確定させていくうちにあることに気がついた。今回のBとの問題は、言語能力の違いがもたらした出来事でもあると いうことだ。ここでいう言語能力というのは語彙力だとか、読解力、文法能力といったものではなく、ある言葉を使った時にどういった変化が起きるのか、どう いった概念がどの範囲で確定するのかという言葉が持つ能力、特性といったものを見極める能力のことである。これはコミニュケーション能力とも違うものだ。

僕は言葉は自分の脳内の情報、思考状態を現実に一時的に具現化するものだと思っている。よく、言葉は相手に伝えるものというが、言葉を構成する単語をどう解釈しているか、どう定義しているかというのは人それぞれ違うわけで、言葉がどのように相手に伝わるかというのは相手がどのように解釈するかという問題でもある。これは言い換えれば、話し手が生み出した言葉を聞き手が好きなように受け取りに行くという構図とも見てとれる。相手の受け取り方はこちらからある程度操作できても、完全に自分の意図と合致させることは奇跡でも起きない限り出来ない。何故ならそれらは実体化されないからだ。

この具現化と実体化という関係は少し難しいが、僕は具現化は現実世界に現されること、実体化は現実せぁで観測可能な物として確定させることと定義している。つまり、具現は一応現実世界に落とされているものの、実体として確定していない曖昧な状態という解釈である。

実体化されていないものは常に曖昧なものだ。何か音が聞こえたからといって、その音を発した実体を目で見て観測しない限りその存在を確定することはない。 たとえ観測したからといってそれが真実であるとも限らないが、観測したという事実は残るので、その事実が共有される範囲の中では実体を確定させることは出 来る。これはこのシリーズの四回目で記した限定された範囲での答えと同じ考え方だ。

これは自分の存在についても同様である。たとえばデカルトの命題「我思う、ゆえに我あり」を引用して存在を確定するとする。確かに自分の存在の有無を意識 している時点で意識があることは確定する。現実において意識の実体は体。今まで自分は観測されてきたし自分でも観測できているので、現実での存在も確定し ている。
しかしこれも限定的な範囲での確定、デカルトの命題が共有され、自分が観測されている範囲での確定であって、あらゆる場において確定されたわけではない。

これらの情報から導き出される答えは何だろうか。それは、思考結果は常に範囲が限定的ということである。つまり、言葉がどの範囲で有効なものなのかを把握していないと、その言葉の意味、意図、本質は見えてこない。

こういった構造を理解して、世界が現在どういう状態にあるのかを知り、それに合わせた概念を言葉を使って具現化させるといった行動を繰り返し、自分の目指す世界に近似させていくための能力がコミュニケーション能力なのだと僕は考えている。

このような視点があるかないかで今回の件の結末は大分変わっただろうなと思う。

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